みちのく砂丘Ⅱ

仕事とあまり関係ないことについて書きます。

古文・漢文はオワコンなのか

古文・漢文はオワコン(終わったコンテンツ)という主張があるようですが。

 

まあ、学校の科目の中では最も実用から遠いので、それはわからなくもない。

国語という基幹科目に組み込んだままにするんじゃなくて、理系の物理・化学みたいに、文系志望だけの科目にしていくことはあって良いとは思います。

実際、入試ではもう現代文だけってこともあるみたいですし。

 

ただまあ、まず敢えて言えば、どっかの受け売りですけど、日本語って外来語をかなり柔軟に取り入れてしまってて、今の日本語での日常会話も文章も、それこそ「コンテンツ」とか「スタート」とか「アクセス」とか、英語中心に外来語がすごく多いんですよね。入試現代文も「メタファー」とか「アプリオリ」とかいろいろ外来語だらけだったりする。その中で、正しい古来の日本語とはそもそも何だったのかというところで、立ち返るホームポジションになる。

漢文も、古文のさらに原型ですし。

 

あと、日本はずーっと昔から日本として続いてきたので、あまり国としての自己同一性(アイデンティティ)を意識することはないのかもしれないですけど、ここまで完璧に古来の文章が残ってる国って割と珍しいのかもしれない。

中国みたいに焚書坑儒のような思想統制がたびたび入ってたり、ブルガリアみたいに一度オスマントルコに征服されて500年くらいにわたってブルガール人としての国家が途絶えてたり、ポーランドみたいに周辺の強国に割譲されて何度か消滅してたりもしない。

アメリカ合衆国に至っては古代の文献とか存在しないので。

そういう中で、枕草子やら源氏物語を筆頭に、古代から中世までの文学的資源がかなり完璧な形で(本屋の店頭でいつでも買えるくらいに)残ってる日本の環境って非常に良いと思うので、これを活かさないのはなんかもったいない気もする。

 

あともう一つ言えば、安っぽいナショナリズムの喧伝に対する免疫もつくかもしれない。

徒然草なんか読むと、昔の日本人も、国のことなんかよりそれぞれの人生を生きているわけです。今よりも天皇の地位ははるかに高い時代ですが、それでも、年がら年中天皇のことばっかり考えて生きてたわけじゃない。天皇(お国)のために死ぬことを誇りと思ってるわけでもない、等身大の生き方をしていることがわかります。

そういうところが疎かになると、かえって、戦前の日本のように、「神の国」「お国のために」思想みたいなものが日本人の心性なんだ、というような喧伝に踊らされそうだなとも思うわけです。

 

そんなわけで、私は古文・漢文は、(どこまで必須科目とするかの問題はあるとしても)全然オワコンではないというか、今後もある程度は必要な教養だと、思いますけどね。