新潮文庫版(2015年・芳川泰久訳)、講談社文庫版(中村光夫訳・1973年)を半端に読んできたのですが、古本屋で、岩波文庫版(1960年・伊吹武彦訳)があったので購入してみました。
これは電子書籍版がないです。
ただ、電子書籍ばっかり読んでたから、たまにはリアルの文庫本が読みたくなるんですよね。訳は古いけど装丁は今風に刷新されていて良い。
三度目の正直、ちゃんと読もうと思ったのですが、実際、もう筋書き自体は頭に入っているので一番面白いです。最初は「なんてつまらない小説だ」と思ってしまったのですが、何度も読むと心から楽しめるというか。
(以下ネタバレ有り)
単なる不倫ものではない。
下巻(後半)で、主人公であるボヴァリー夫人ことエンマは、2度目の不倫にも挫折した後、一度、キリスト教に傾倒して、やたら人生態度が真面目になってるんですよね。
でも、それは、心から不倫を反省したからではなくて、そうすることで自分の人生に新たな地平がひらけるのではないか、この退屈な日常から抜け出て遠い彼岸で幸せがつかめるのではないかと思ったからです。
だから周りがビビるくらい熱心だけど、どっかズレてる。
現代人が、宗教や、あるいはニューソート(○○をすれば人生が変わる!明るくなる!みたいな)にハマるのと何ら変わりない。
現代に通じる人間の本質を描いているだけではなく、これはキリスト教的価値観(信じる者は救われる)への挑戦だと思います。
フランス革命が成ったとはいえ、まだまだキリスト教の強い時代に、言ってみれば「お前らが神を信じるのって、けっきょくは、その片付けてない台所の匂いのする日常から抜け出してみたいからだろ?」って皮肉ってる感じなんですよね。かなり勇気の必要な皮肉だったと思います(事実、出版当時、フローベールは良俗違反で起訴されたようです…無罪にはなったようですが)。
でもエンマは救われない。田舎司祭の言うことはいつもどこか絶妙にズレてる。台所のにおいは消えない(台所は、平凡な現実の象徴として作中割と頻繁に描写されます)。夫であるシャルルは、妻子と一緒にそんな平凡な日常を送るだけで事足りている様子なので、エンマはさらにイライラしてしまう。そして、最終的には破滅に向かっていく。
だから、エンマを単なる不倫女として片付けられない。
家族を顧みず不倫にはしる人、宗教にハマる人、仕事中毒な人、意識無意識の差はあれ、どっかで、自分の人生はこんなもんじゃない、まだ終わらない、もっと何かあるはずって思ってる部分はあると思うので。
1857年に、信仰がもう心の平穏を守ってくれない時代を表現しているのが、偉大な文学たるゆえんなのかなと思います。