『ドラゴンクエストⅪ』から4年近く経ちましたが、今また振り返ってみてどうだったかというところで、感想を書いてみます。
ちょっと(?)批判的になるかも。あと全ネタバレありです。
ドラクエシリーズの他作品だけじゃなくてFF6やFF7、その他のゲーム(女神転生系の過去作品など)のネタバレもあります。
単体として見れば良いゲームではあった。でも、特に終盤が、ドラクエシリーズ「らしく」はないゲームだったなあと思うわけです。
どっちかというとFFですよね。やってることは。
世界崩壊はFF6の世界崩壊そのままだったし、ベロニカが犠牲になるのはFF7のエアリスと同じ感じでした。
ベロニカが犠牲になって、セーニャがベロニカの能力を引き継いで僧侶&魔法使いになるところまでは、まだついていける。
でも、その後「真のエンディング」を見るためには、過去に戻らないといけない、そうすると、その世界のセーニャら仲間たちとはお別れしないといけない。
これ、女神転生系ゲームの某有名作品と着想は同じですよね。
でも、そういうのって、なんかこう、全体的に「湿っぽい」と思ってしまう。
「やってることがFF」、という所以です。
ドラクエって、やっぱりⅠ・Ⅱ・Ⅲでスタイルがほぼ確立されてて、豊富な仲間たちにキャラクター性を持たせたⅣと、親子三代を壮大なスケールで描いたVでピークを迎えてると思います。
ドラクエⅥは、転職&特技システム中心にちょっとFFを意識しすぎてドラクエらしさが少し後退している気がする。ストーリー的にも、ちょっと哀感漂う終わり方ですからね。
ドラクエⅦは、部分的にはドラクエらしさが戻ってたんですけど、全体的に長い&暗すぎて不評。
ドラクエⅧはほぼFFですね。これもゲームとしては良かったけど、ドラマ重視のストーリーで、主人公が喋らないという以外はFFに近かった。
私が言うドラクエらしさって何かというと、単純明快さです。
ヘンにドラマとかを描かないで、デジタルで無機質なところを、凝縮されたセリフ(堀井雄二氏の功績)と、愛嬌あるキャラクター(鳥山明氏の功績)と、素晴らしい電子音楽(すぎやまこういち氏の功績)で上手いこと昇華させてるのが良さだと思ってます。
例えばですけど、ドラクエⅤで成長した子ども達と初めて会った時、何かえらく軽い感じで仲間に入りますよね。後で母親と会った時はちょっと泣いてしまう子ども達だけど、父親(主人公=プレイヤー)と会った時には、サクッと問題解決して特に泣いたりもせずサクッと仲間に入る(笑)。
でも子ども達の知的な話しぶりだけで、健やかに育ったことと、子ども達の頼りがいが伝わってくるんですよね。あれ、よく考えるとすごいと思います。
それまでが絶望的な展開なので、「子ども達が親を救出するほどに育っちゃったよ」とむしろ軽妙なおかしさすら覚える。一気に気分が明るくなりますよね。
並みのRPGだったらあの場面でまずは一泣きさせようとするんだと思いますけど、そんな気配すらなかった。
ああいうのが「らしさ」だと思います。
話をドラクエⅪに戻すと、どうしても、せっかく覚醒して真の力を発揮しているセーニャと別れて、ベロニカを助けに過去に戻ることになる(そうじゃないと真のエンディングにならない)。
その湿っぽさと展開の重さが…やっぱりちょっとなあ、と思いますね。
少なくとも遊んでて楽しい気分の展開ではなかった。
「前の世界に置いてきたセーニャたちは…」となりますからね。
あの展開をやるくらいなら、クリア後に超難しいダンジョンに挑んで、クリアしたらベロニカとか世界崩壊で犠牲になった人たち全員完全復活、くらいの御都合主義のほうが、むしろドラクエらしくて良かったんじゃないのと思いました。
そういう意味では、改めて遊び直したいと思うゲームではなかったです。
なので、ドラクエはⅠ~Ⅴ(行ける人はⅦまで)を遊ぶのが一番かなと。