実はオリジナル版は一度もクリアしたことがなかった『ファイナルファンタジーⅣ』(FF4)。
1991年、スクウェア社のスーパーファミコンソフトです。
FF5はPS3で遊んでるのですが、これはスーパーファミコン版を買ってきました。箱説明書付きで1000円。中古専門ショップのシーガルだから動作確認済み(ステマ風)。
何かDSのリメイク版のイメージが悪すぎて(理不尽すぎるシステムとバランスで、個人的には「ク〇ゲー」と言ってしまって良いような出来でした)、あまり手が出なかった。
まあ、でもオリジナル版はさすがに面白いです。
DSのリメイク版よりも断然面白いし、純粋にゲームとして出来が良い。
1992年冬のFF5が、多くのスーパーファミコンRPGにとって超えられない目標だったと思うという記事をちょっと前に書きましたが、1991年夏のFF4は多くのスーパーファミコンRPGのベース、模範になるようなゲームでした。
スーパーファミコンでRPG作るんならこんな風にしたらいいんだよ、というお手本を示すような感じですね。
FF5と比べると、良く言えば誰でも手順を守ればクリアできるように作られている、至れり尽くせりの親切設計。
とりあえず難しくしておいて「クリアできればすごいね」という旧時代のRPGスタイル(FF3はこれだったと思いますが)ではなくて、誰でもクリアできるように作って、むしろストーリーを楽しんでねというメッセージが伝わってきます。
ゲームでドラマチックな展開を描いた始祖と言うと大げさかもしれませんが、少なくとも家庭用RPGでここまでドラマチックにしたのは初だと思います。
改めて遊んで見るとギルバート関連のストーリーとか、今ではありがちですけど当時としては非常に先進的な内容ですよね。ナヨナヨとして情けない王子が苦難の展開を乗り越えて成長していくわけですが、ファミコン時代ではここまで細密な会話や心理描写は無理だったと思います。ちなみにドラクエは6のホルス王子でこれをやりたかった(?)のかもしれませんが、全然及んでないですね。
親切で攻略法がわかりやすい反面、ゲーム慣れした人にとっては予め攻略ルートもボス敵の攻略法も決められているようなところに物足りなさを覚えるかもしれません。キャラの入れ替えが自由に選べないうえ、装備品も乏しく、戦い方もほぼ選ぶ余地なし。
実際、FF4の、一本道でストーリーを遊ばされている感じがあるというところについては当時から既に批判がありました。
「自由度」というやつですね。
実際、自由度を高めすぎると、例えばストーリー上では活躍しなければならないキャラが控えメンバーのままで終わってしまったりする可能性があるので、FF4はその自由を制約することでドラマを引き立てている感じのところはあります。自由に仲間を選べるならギルバートなんて使わないでしょうからね。
ファミマガで「自由度」とは?ということで「ご隠居」(たぶん編集長クラスでしょうね)が真面目な論考を執筆したりもしていた。
FF4は、ファミコンでは不可能だった壮大な展開と表現を織り込んだストーリー重視の作品で、「ゲームってここまでできるんだよ」という可能性を示した、その点ではエポックメイキングな作品の一つだと思います。
ただ、そのストーリーを重視しすぎる傾向が賛否を呼んだところがあり、ゲームの面白さとは何か、もっとこういうことができないかとか、いや、この方向性でいいんだとか、ゲームの面白さや可能性を巡る論議がそれまでにも増して熱くなってきた。
この後、FF4のようにドラマを見せてくれる作品も多く世に出てきました。代表作は同じスクウェアの1993年6月『聖剣伝説2』、マイナーどころではデーターイーストの1992年4月『ヘラクレスの栄光Ⅲ』。
他方、これもまた同じスクウェアからアンチテーゼ的に、今度は自由度を極端に高めた『ロマンシングサ・ガ』が半年後の1992年1月に発売されたりして、また「自由度」論議が盛り上がっていたような記憶があります。
そういう意味では、とても功績の大きい、そして夢の膨らむ、熱い時代の作品だなということをしみじみ思いながら遊んでいます。