最初に読んだのが高2の秋ころだったのですが、秋になると、たまにふと読みたくなりますね。
何度か書いてますが、夏目漱石作品の中では一番好きです。
面白いかというと、ストーリー的にそんなに面白いわけではない。
現代基準で見れば、そんなに衝撃的な展開はないので。
これが村上春樹の小説だったら150ページくらいでもう××と××が××××ということになってそうな感じですけど、そこは夏目漱石、そんな展開には絶対にしないです。
でも、ほんの小さな仕草や言動に見える心理的な戦いの描写が緻密なのです。
一つ引用すると、これは、二郎(主人公)と一郎(兄)の会話。
一郎の娘であるものの、一郎には全然なついておらず、妻(二郎から見ると兄の嫁=義姉)である「お直」にばかりなついている「芳江」に関する会話です。
(青空文庫より転載)
「芳江は下にいるかい」
「いるでしょう。裏庭で見たようでした」
自分は北の方の窓を開けて下を覗いて見た。下には特に彼女のために植木屋が拵えたブランコがあった。しかし先刻いた芳江の姿は見えなかった。
「おやどこへか行ったかな」
と自分が独言を云ってると、彼女の鋭い笑い声が風呂場の中で聞えた。
「ああ湯に這入っています」
「直といっしょかい。御母さんとかい」
芳江の笑い声の間にはたしかに、女として深さのあり過ぎる嫂(あによめ)の声が聞えた。
「姉さんです」と自分は答えた。
「だいぶ機嫌が好さそうじゃないか」
自分は思わずこう云った兄の顔を見た。彼は手に持っていた大きな書物で頭まで隠していたからこの言葉を発した時の表情は少しも見る事ができなかった。
(以上)
私なんぞが言うのもなんですが、この一部分だけでも本当に上手い、という。
「鋭い笑い声」で、幼児がお風呂に入ってる時のキャッキャとはしゃいだ声が響いているのが想起され、それに対して「女として深さのあり過ぎる」兄嫁の声が対比されることで、母娘二人で父親(一郎)をそっちのけにして楽しそうにお風呂に入ってる情景が浮かぶわけです。
外や居間じゃなくて「風呂」っていうのがまた、母娘だけの空間という感じを醸し出しています。二郎と一郎が話しているのは一郎の書斎なので、静かな書斎と賑やかな風呂の対比も含まれています。
そして一郎は、「だいぶ機嫌が好さそうじゃないか」と何気ないセリフを発していますが、これは単なる感想ではなくて、その前に誰と一緒に風呂に入っているのかを確認し、それが妻だとわかってから言っているところがポイントなのです。
これは、引用した個所の前の部分で、一郎に娘が全然なつかないこと、それを気にも留めない(かえって娘との仲を見せびらかすかのような)妻の様子、そんな一郎と妻の冷淡な仲が描写されているために余計に引き立ちます。
「(俺をのけ者にして)(俺の前では妻も娘も楽しそうな表情は出さないのに)(俺の前では娘は怖がって笑わないのに)大分機嫌が好さそうじゃないか」なのです。
表情を見ることができない、というのが、余計に一郎の寂しさを際立たせています。
こういうところ、小説としての技法がすごいと思います。
王政復古の大号令で江戸時代が終わってからまだ50年弱、つまり現代(2020年)よりも江戸時代のほうがずっと近いという時代にこの細かい描写です。
「行人」に続く夏目漱石の代表作「こころ」は小説としては美しいですが、美しさが勝っていて「行人」のような暗さはない。
ひたすら暗い、けど細密で精緻。「行人」が好きな理由です。